始まり

射水市南方の池多・平野・上野・橋下条などを結ぶ丘陵地は古墳時代、奈良時代、平安時代と、小杉焼が始まる以前から陶器づくりが行われていました。この一帯には焼物の原料となる良質の粘土と燃料となる赤松が豊富にあったからでしょう。
 この小杉焼は、今から200年前の、江戸時代後期の文化13(1816)年頃から明治の中頃まで、約80年間焼かれたものです。
 初代与右衛門から四代目まで旧小杉町(以下小杉町)で陶器づくりが盛んに行われていたのです。
 初代与右衛門(幼名与一郎)は諸国修行遍歴を経、相馬焼(福島県)で技を習得、10数年の修行を終え30歳で帰郷し開窯しました。そして優れた技術を発揮、しょう油醸造業高畑仁左衛門の支援をうけ、また時流にも乗り、隆盛を築くことができました。
  小杉焼の窯は、上野、箕輪、高畑(戸破)の3か所です。
 上野(うわの)窯は、現在の北陸自動車道小杉I.C内に築かれ、五角形で平面の単房式の窯跡が見つかっています。
 箕輪(みのわ)窯は、現在の太閤山一丁目の法唱寺付近に築かれていました。床に砂を厚く敷いて陶柱を立てた跡が確認され、かなり長期間使用された窯だと考えられています。
 戸破(ひばり)の高畑窯は、戸破中央通り一丁目、下条川右岸(源造記念館付近)に築かれた窯です。「窯の高さ五尺、幅五尺、奥行九尺、一寸上り三段」の有段式登窯だったとの伝承があり、小杉焼の主体窯です。

初代の開窯、隆盛へ

小杉焼は、酒器、茶器、灯火器など日用品全般を作り、その中でも鴨徳利、瓢徳利(酒器)が有名で、優れているのはその美しさです。
 初代与右衛門は、努力をして良質の土を探し出し、その胎土の緻密さと、相馬で取得した技に加え、天性とも言われるすぐれた感性により薄手のしかも品格のある形を生み出しました。また、釉薬を掛け残したところに釉薬で紋様を描いた窓貫の徳利にも独特の趣があります。特にロクロの技は京焼の仁清に勝るとも劣らないくらいと評価されています。 そして小杉焼は、急速に名声が広まり、天保年間には加賀藩から陶器所の免許をうけ、郡奉行の支援もあって全盛期を迎えました。
初代与右衛門は天保9(1838)年8月「初代也但当所陶師元祖也」の栄誉を過去帳にのこして亡くなりました。 二代目与右衛門(幼名与十郎)は30歳で跡を継ぎました。初代の徳利はやや小ぶりが多く、見事な造形感覚が発揮され、緑釉はやや明るい感じの美しい色つやです。これに比べ二代は、代表的な大徳利などバランスの良い造形ながら、大ぶりでのびのびとして力強く、緑釉は初代のものよりも濃緑色を帯び、底光りを有しています。また釉薬の研究には心血を注ぎ、「一子相伝秘法小杉焼釉薬調合帳」を書き綴り、研究を重ねました。この「調合帳」は四代まで書き続け、昭和初期まで現存しました。

二代一家の悲劇

二代目が継いでからも天保、弘化、嘉永、安政、万延と繁栄を続けましたが、文久2(1862)年に至り、この年の伝染病の流行が一家を襲いました。2月と3月に娘と三男を亡くし、9月29日には三代目を継ぐはずの長男が21歳の若さで亡くなり、さらに翌30日に二代目与右衛門自身が没してしまったのです。初代のあとを享けて24年間、努力を実らせ小杉焼隆盛のうちに58歳でこの世を去りました。
 そしてこの後、長男と双子の兄弟と思われる同じ21歳の幼名三重郎が、唐津山与右衛門と称し三代目を継いだのですが、これもまた4年後の慶応2(1866)年7月27日に25歳で若死してしまいました。今日、遺されている作品の中に、これが三代目の作だと判別できるものはありません。

若き陶山(からつやま)三十郎、四代を継ぐ

 四代を継いだのは親族と伝えられている陶山三十郎(幼名与市)です。
まだ19歳の若さでした。そして安政の大地震で被害を受けた高畑仁左衛門の支援はすでになく、また、明治維新を迎える加賀藩も余裕のない
時代になり、この三代、四代は極めて厳しい状況に置かれていました。
 四代三十郎は苦心、努力し腕を上げ、一時は大量生産もしましたが、明治維新後、急速に交通輸送が発達、大規模産地の陶磁器が大量に入り対抗できず、ついに明治22(1889)年9月廃窯しました。その後、小さな窯で軟陶を焼きましたが明治41年1月17日、61歳で没しました。
秘法は幻となりましたが、素晴らしい「小杉青磁」作品が遺ったのです。